古川禎久 ふるかわよしひさ
身長:175p 体重:80キロ
生年月日:昭和40年(1965年)8月3日
獅子座      血液型:O型

宮崎県串間市に生まれる 
焼酎屋の二男

都城市在住 妻と三男
文鳥のピッちゃん

略歴
東京大学法学部卒業後、建設省(現・国土交通省)入省。
衆議院議員政策担当秘書などをへて、平成8年・12年の総選挙に立候補・落選。
平成15年・17年と当選し2期目
現在、法務大臣政務官(安倍内閣・福田内閣)
現職
政府:法務大臣政務官
衆議院:法務委員会
党:宮崎県第三支部長など
その他:議員連盟など多数
趣味
一人旅(なかなか時間がないけれど・・・)
海とヨット 樹木を愛でること
読書は、山本周五郎や藤沢周平
『ローマ人の物語』シリーズ(塩野七生)も大変でしたがよかった。
案外、映画もすきです(黒澤明監督〜『寅さん』〜健さんも)
それから矢沢永吉の大ファン。
思い出


焼酎のこと

 私の実家はかつて焼酎屋でした。造り酒屋といえば白壁の蔵のある旧家のようなイメージがあるかもしれませんが、そうではありません。シラス台地が広がる南九州には、以前から芋焼酎を造る小さな焼酎屋がたくさんあり、我が家も昭和元年から家族の手でこぢんまりと焼酎を造っていたのです。

 記憶に残る工場(こうば)の光景。裸電球と壁板の節穴から差し込む光。眼鏡のジイちゃんと何やら計器らしい道具。薄暗い土間で黙々と原料芋の端を切り落とす作業。あのときの、芋と土の匂い。湯気立つ石室で麹米を混ぜ込む父の汗。細腕ながら一斗箱(10升入りの木箱)を抱える母の肩。断片的だけれどハッキリと覚えています。

 小学生だった私も簡単な作業は手伝いました。ハケで糊をのばして、ラベルを一枚一枚ビンに貼る作業。これはすぐに飽きがきましたが、焼酎のビン詰めや封緘作業なんかは達成感がありました。原酒タンクの掃除をしたら匂いだけで酔っ払い、歌なんか歌いだしたこと。ボイラーの熱湯を風呂代わりにしたことなど、楽しく大騒ぎした思い出もたくさんあります。今の機械化された時代と違って、何もかもが単純で素朴でどこか牧歌的な焼酎工場でした。

 焼酎屋はずいぶん前に廃業し、小さな工場も壊してしまいました。工場があったはずの敷地は、あらためて見ると驚くほどに狭く、猫のひたいほどしかありません。しかし、この場所で焼酎造りの営みがあったこと。そのお蔭で学校に出してもらったことは私にとって大事な記憶です。



鮎のこと

 ふるさとを流れる福島川。通称「したんこら」(下の川原の意)と呼ぶこの川で、川エビ、フナ釣り、鮎獲りなど川遊びをしながら私は育ちました。

父にはよく鮎獲りに連れていかれました。月のない晩に、カーバイトのランタンと魚篭を腰に下げ、川下から網を打っていくのです。昼のうちに川を歩いてますので、どこが瀬でどこが淵かはよく分かっています。たくさん獲れますと、凱旋将軍のように誇らしい気持ちで家に帰ったものです。

お隣の床屋の浩おじちゃんはチャッポンがけ(転がし釣り)の名人でした。床屋が休みの月曜日には、決まって川べりの指定席に腰を降ろして釣竿を操っています。浩おじちゃんは、次々と釣りあげる鮎に塩をまぶしドラム缶の火で炙りながら、美味そうに焼酎を飲んでいました。

だからなのでしょう。私は鮎という川魚に特段の愛着があります。人影を察知した瞬間に姿を消す敏捷さ、きめ細かなウロコと黄金色に光る肌、無駄のないスマートな姿。鮎こそは川魚の女王です。鮎の独特の香り、秋の川面に跳ね上がる水音。私のふるさとの懐かしい原風景の一部です。



本との出合い

 高校一年の「生物」の受け持ちは町田先生でした。淡々とした口調ながらも熱く語る先生の授業はとても面白く、ノートを取りながら熱心に聴き入ったものです。特に興味をそそられたのは生態系に関する授業でした。森羅万象すべてが循環しているという生物界の妙味に惹かれた私は、さっそく町田先生を訪ね、本をご紹介下さるようお願いしたのです。

ご紹介いただいたのは、『沈黙の春』(レイチェル・カーソン 1962年)と『複合汚染』(有吉佐和子 1975年)の2冊でした。ご存知の方も多いと思いますが、2冊とも「農薬などの化学物質が生態系に与えるダメージ」「残留毒性の恐ろしさ」などを告発した本で、そのころから相当話題を呼んでいた本です。もちろん、山や川で育った古川少年も大変ショックを受ける内容でした。強烈な恐怖心とともに、少年なりに義憤に似た感情を抱いたことを覚えています。ちょうど政治に漠とした関心を持ちはじめた頃でもありましたが、今ふりかえってみますと、この2冊との出合いはその後の私にかなりの影響を与えたように思います。

 あれから30年近くの時間が流れました。事態はいよいよ深刻となり人類の生存にり抜き差しならないところまで来ています。2冊の本との出合いをもう一度噛みしめてみよう、と思っています。



ジサマ(爺さま)のこと
 



 地元での政治活動のスタート地点はと言えば、ジサマ(当時
80歳)の養豚場以外にありません。薩摩出の頑固偏屈なジサマは、若い頃はいろいろ毀誉褒貶あったらしいけれど、私のことは実の孫のように可愛がってくれました。当時アパートも借りれずにいた私は、ジサマの養豚場に居候。毎朝、軽トラックで連れ立って選挙区の山奥から山奥まで歩いて回ったものです。養豚場の夜は、特に懐かしく思い出すのは寒い冬の夜ですが、破れ障子から冷たい風が吹き込んでくるのです。二人して炬燵で暖をとりながらお湯割りのコップを握りしめ、私は大まじめに青い夢を語るし、ジサマはジサマで大まじめで相槌を打っくれました。30歳の若けモンと80歳のジサマの変わった取り合わせ。私の政治活動はこうして珍コンビでスタートしたのでした。

 次第にいろんな会合に呼んでもらうようになり、焼酎の席も増えてきた頃だったでしょうか。深夜酔っ払って帰り、部屋の蛍光灯の紐を引っ張って灯りをつけると、そこには布団がキチンと敷かれている。枕元には私の下着や靴下までもたたんであります。何度となく私は「ジサマ。洗濯は若けモンがしますから。」と申し出るのですが、ジサマは決まって「オハンのその手は、1万人の皆さんと握手をせんにゃならん手じゃっど。朝起きて、顔を洗い歯を磨く以外は、水を触っちゃならん。」と言うばかり。その言葉に私はいつも涙をこぼしておりました。

 「オハンが当選してバンザ〜イができれば、オイはそのままバタッと倒れて死ぬとじゃ。」「オイの人生の最期の花道じゃ。」これがジサマのいつもの口癖でした。しかし選挙は落選続き。ジサマも85歳を過ぎ体力に衰えが目立つようになりましたが、頑固モンですので若けモンの言うことを聞こうとはしません。自転車で一軒一軒ビラ配りをしてくれるのですが、目がよく見えない上にヨロヨロよろめいて本当に危ない。「ジサマ。もうよかからやめて下さい。」何度言っても「ワイは黙っちょれ!」の一言。またしても私は涙をこぼすばかり。

 平成1511月の総選挙でようやく私は初当選させて頂きました。養豚場の居候から、実に9回目の冬のことです。。しかし、ジサマはその直前の2月に他界。救急車の後を追いかけましたが間に合いませんでした。そして何よりの心残りは、とうとうバンザイをさせてあげられなかったことです。あと少しだったのに。
 けれども、きっとジサマは満足してくれていると思います。
あの選挙戦の最終日。夜。「原点」である養豚場へ向かってひた走る選挙カー。スピーカーの喧騒の下からふと見上げると、澄んだ夜空にクッキリと満月が浮かんでるではありませんか。その見事な満月が確かに何かを言ってくれたような気がしたのです。後部座席の妻をふりかえり、ジサマやね・・・」二人してそんな確信を持てたのです。