2009年11月21日


南九州文化研究会の創立30周年、おめでとうございます。
今日という特別な日に、私のような者に話をする機会を与えていただいて、大変光栄に思います。と同時に、歴史にお詳しい先生方、先輩方を前にして、私本当に恐縮しております。また本日は、島津久厚先生(都城島津家第28代ご当主)にもご臨席を賜っておりまして、もう緊張のあまり言葉を忘れてしまいそうでございまして、たいへん恐れ入ります。
「高山彦九郎と都城」という題で一時間ほどお話をさせて頂きます。高山彦九郎というので唐突にお感じになる方もおられると思いますが、実は私、15年近く前でしたが、あるきっかけがございまして、以来、高山彦九郎にたいへん関心を寄せておりました。出生地の群馬県太田市にあります高山神社にも参拝しましたし、終焉の地・久留米の遍照院にもお墓参りに出かけたことがございます。そうした中で、神柱神社(都城市前田町)の境内に高山彦九郎の歌碑を見つけて、これはいよいよ只ならぬ縁だぞと。彦九郎はこの都城にも訪れていたわけで、これはすごい事だと。今日は、私なりの彦九郎観、彦九郎への思い入れみたいなものをお話させて頂きたいと思っております。
「寛政の三奇人」
高校の歴史の教科書に「寛政の三奇人」として、林子平・蒲生君平とともに高山彦九郎の名前がでてきます。詳しい解説があったわけじゃありませんし、なんと言っても「奇人」です。変わり者、半狂人のような印象でしょうか。実際、世のイメージも、極端な勤皇家、国粋主義者という感じですよね。しかし、彦九郎の日記に、彦九郎は全国を旅しまして膨大な日記・紀行文を残していますけれども、この旅日記に少し触れてみますと、彦九郎のイメージはまったく違ったものに見えてきます。人情家で、涙もろく、たくさんの歌も詠んでいます。眉は太く長く、眼光鋭く、声は大きく、総髪で堂々たる体格を持ち、学識も並はずれて深く、何よりも思想家であります。人に好かれ、多くの人と交流して全国を歩く行動家。まさに国士ですね。ですから、「奇人」とは、少なくとも「傑出した人」「類まれなる人物」という意味でとらえるべきだと私は思っています。この「寛政の三奇人」という呼び方は、明治三十何年かに教科書に使用されたのが始まりのようです。それ以来、そのせいで、彦九郎のイメージが狭い型枠にはめられてしまったような、何かしら不当であるというような、そんな気がしているわけです。
彦九郎と尊皇
今から262年前、延享4年、1747年5月8日に、高山彦九郎正之は上野国新田郡細谷村、現在の群馬県太田市に生まれました。ご先祖は「太平記」にも出てきます。鎌倉末期、北条高時の専横ぶりに後醍醐天皇がこれを討てとのたまった。我こそと旗揚げして鎌倉を攻めたのが新田義貞ですね。元弘3年5月8日、この旗揚げの日が彦九郎の誕生日と同じということで、彦九郎は生涯、郷土の英雄である新田義貞に深い因縁を感じたんですが、わずか150騎で立ち上がった新田義貞の、その中核たる義貞16騎のうちの一人が高山遠江守で、これが彦九郎のご先祖なんですね。この系譜からしても彦九郎は尊皇派なのです。彦九郎は13才で「太平記」を読んでいますが、きっと、尊皇の念に血を湧かせながら、身近な感覚でもって読んだことでしょう。
彦九郎の祖父・貞正は、反幕府の思想の持ち主だったようです。そのころ高山家は代々、細谷村の名主の家柄だったんですが、この細谷村は旗本・筒井氏の領地でしたから、当然のことながら幕府体制側なんですね。貞正はとうとう住んでいられなくなって、次男の婿入り先に身を寄せて、ここで失意のうちに亡くなります。その際どうやら貞正は、「天下のために使え」と言って、かなりの財産を彦九郎に残してるようなんです。ひょっとしたら、これが彦九郎の活動資金になったのかもしれません。
彦九郎正之の父、彦八正教もやっぱり反幕府なんですね。そのせいでしょうか、神奈川の阿夫利神社参詣の帰り道に暗殺されてしまいます。おそらく筒井氏つまり幕府側の仕業なんでしょう。このとき彦九郎は23才です。彦九郎は父の仇討ちを決意しますが、細井平洲先生、儒学者ですね、師事している細井平洲先生に諭されるんです。「そんなことよりも、もっと大きな目的のために命を使え」と。この話、細井平洲の記録に残っているそうです。
祖父と父と、二代にわたって反幕府の思想をもち、そして二人とも悲憤の死をとげるわけです。彦九郎少年が、反幕府そして尊皇の道に踏み込んでいくわけですが、これは、いわば当然の成り行きなのかもしれません。
当時の時代背景をみましても、8代将軍吉宗から家重、家治といったあたりが彦九郎の少年時代です。災害や飢饉が頻発して、一揆や打ちこわしも増える。徳川の治世の停滞感は拭えない。そんな雰囲気の時代です。
彦九郎、数えの12才のときに宝暦事件が起こりました。これは簡単に言えば、朝廷の尊皇論者が弾圧を受けた事件です。京都・徳大寺家の儒者・竹内式部の帝へのご進講をめぐって、幕府を否定するものでありケシカランというので、京都所司代が徳大寺公城らを処罰した事件です。
彦九郎20才のときに、明和事件も起こります。儒学者の山県大弐の書いた「柳子新論」、これ過激な幕府批判なのですが、これを知った幕府は驚愕します。山県大弐は思想犯として逮捕され、処刑されます。
徐々に、幕政への反感と、尊皇思想とがつながりあっていく。幕府はこれをやっきになって抑えようとする。そんな時代の流れのなかで、彦九郎青年が成長していくのです。
彦九郎は、18歳のとき遺書を書き残して出奔します。京都へ行くんですね。中仙道からいよいよ京の都に入る。そのとき彦九郎は、賀茂川の三条大橋の東詰めにて、涙ながらに皇居を伏し拝んだといいます。いま、京阪三条駅前には、あの有名な、御所を拝する彦九郎の銅像がありますね。ちなみに銅像の「高山彦九郎」の揮毫は東郷平八郎元帥のものだそうですが。さて、ようやく訪れることのできた京都ですが、そこで彦九郎の目に映ったのは、幕府によって軽んじられる朝廷の姿だったのではないでしょうか。
東山のぼりて見ればあはれなり 手の平ほどの大宮どころ
何とかしなければ。そんな想いが彦九郎の胸を去来したはずです。
救民の法
彦九郎は、全国を旅して、たくさんの人々と出会っています。学問に打ち込み、名のある識者と活発に交流しますし、各地の領民の惨状を見聞きして、困っている人々と接しては、「救民の法」つまり人々を救うにはどうしたらよいかということに心を砕きます。浅間山が噴火すると、被災者への救済金を集めようと白木屋、これは京都の豪商であり彦九郎の後援者ですが、ここに義援金を求めたりしています。
また、孝行息子などのように「忠」「義」に篤い人がいると聞きつけては会いに行くのです。「若狭のおつな」の話をご存知でしょうか。調べてみたら昔の「修身」の教科書にものっている話ですけれども、若狭におつなという貧しい家の小娘がいて、子守奉公に出るんですね。赤ん坊をおんぶしていたら、狂犬病の野良犬に襲われます。噛まれたら100%助からない。もはや逃げられないと悟ったおつなは、赤ん坊を背中からおろして地上に寝かせ、自分の体で覆って守り抜くんです。「自分のつとめを果たすことができてしあわせです。」という言葉を残して、結局おつなは死んでしまうのです。この話を聞いた彦九郎は、京都から北陸へ向かう途中で若狭に立ち寄り、おつなの顕彰碑の前で涙を流すんですね。東海道筋に主人思いの召使がいると聞けば、わざわざ出かけて行って、これまた涙でグチョグチョになりながら褒めるわけです。こんな風で、あちこち出かけては、褒めて、褒美をあげて、というようなことをやっている。忠義の念に篤く、人情家らしい振る舞いなんですが、ちょっと意地悪な言い方をすれば、少し、おめでたい感じがしないでもありません。
そんな彦九郎の、救民への思いの根っこを深くしたのは、やはり東北地方への旅が決定的だったんじゃないかと思います。当時、蝦夷つまり北海道や千島あたりにロシアの黒船が出没するようになります。これは大変だと言うんで、彦九郎は押っ取り刀で蝦夷を目指して旅立つんですね。津軽海峡には至ったものの、幕府の意向というか、まあきっと松前藩のデリケートな状況があったんでしょうか、結局、北海道には渡れませんでした。しかしこの旅の往き復りに、彦九郎は大変な話を見聞することになります。天明の大飢饉です。天明2年から7年くらいまでの間、特に3年の浅間山大噴火による大冷害などあって東北地方は極めて深刻な飢饉にみまわれています。彦九郎が東北を歩くのは寛政年間に入ってからですが、それは、それは、凄惨な話を各地で聞くわけですよ。今日はあえて具体的な内容には触れませんけれども、これは、まさに地獄。地獄そのものです。彦九郎の「北行日記」は、どこか言葉少なで抑制気味の印象があって、それだけにかえって鬼気迫るものがあります。これが人の世なのか。いったいどうすればいいんだ。まつりごとはこれでよいのか。そんな、胸の張り裂ける想いをしながら、彦九郎は東北の旅のあと、そのままの足で京都に向かっています。
旅と交流
ところで、彦九郎は、旅をしながら全国いろんな人物と交流していますが、寛政2年の、この北行の旅だけでも、相当な人たちと出会っています。
水戸では、藤田幽谷を中心とする水戸学の塾生と深く交流しています。藤田幽谷から娘を嫁にくれと言われるほど、彦九郎は尊敬され慕われたようです。まぎれもなく水戸学は、明治維新を成し遂げる有力なエンジンの一つだったわけですが、彦九郎の人格と思想は、その水戸学にも少なからぬ影響を与えているのかもしれません。数十年の後ですが、薩摩の西郷吉之助が藤田東湖に師事する場面があります。藤田東湖は幽谷の息子ですから、西郷はその際、東湖先生から高山彦九郎についてあれこれ聞かされたんじゃないか。そんなこともあって西郷は高山彦九郎を強く尊敬するようになったんじゃないだろうか。私はそんなふうに想像しているんです。
仙台では、同じく「寛政三奇士」の一人、林子平にも会っています。林は日本の国土の境界や海防、特にロシアの脅威に危機感を持っていましたから、彦九郎とすぐに意気投合したようです。
五百年の末の松山外の浜 波風立たじ蝦夷か千島も
彦九郎は林の家に泊り、酒を酌みかわしながら大いに語りあっています。
「寛政三奇士」のもう一人・蒲生君平も、北方の防衛について、たいへん危機感を持っていますから、高山彦九郎が蝦夷視察に旅立ったと聞いて、実は彦九郎を追いかけてるんですね。ほんのわずかの誤差で会えず始末だったのですが、このニアミス、何やら惜しい気がしてなりません。
米沢では、藩主・上杉治憲にも会っています。内村鑑三が理想の殿様だといった上杉鷹山ですね。鷹山公も彦九郎も、お互い、細井平洲の弟子ですからね。鷹山公は彦九郎を大変に歓待しています。
当時は、藩がそれぞれ孤立していると言いますか、横の連携の薄い藩体制の時代だったわけですが、彦九郎はこのように、自在に各地を歩きました。藩と藩の壁を越えて人と人をつなぎ、情報をつないだんですね。一種のメディアです。彦九郎が来ていると聞くと、各地の人々はこぞって彼の宿泊所を訪ね、会話をしたがりました。天下はどうなっているのか?海外は?という具合にですね。そして酒を酌みかわしては、天下国家を論じ、また歌を詠んだのでした。
討幕へ
さて、大飢饉の惨状を見聞きして、堪えられない想いの彦九郎は、そのまま京都に入ります。彦九郎は、岩倉具選(とものぶ)、これは幕末維新で活躍した岩倉具視の四代上にあたる方ですが、このお公家さんの邸宅を拠点にしながら活発に動きます。尊皇派の若い公卿たちと寝起きをともにしながら、朝廷の権威をより高めて正しい文治政治をおこなうべきだ、というようなことを熱心に語っていたようです。
このタイミングは、ちょうど田沼意次が失脚し、老中・松平定信が幕政の実権を握った頃にあたります。いわゆる「寛政の改革」が始まった頃ですね。定信は、以前のような治世に戻したい、徳川幕府の権威を何とか取り戻したい、そう強く願うのですが、これは、なかなかうまくいきません。結局、朱子学以外の学問を禁止したり、思想の統制や弾圧を強めたり、というようなことしか打つ手を知らない。ただでさえ飢饉や災害、一揆・打ちこわしで世の中が荒れているときに、締め付けばかりが目立つ。天下の空気はいよいよ窮屈になっていったに違いありません。
そんな状況のもとで起こったのが、尊号事件でした(寛政元年)。ご存知の通り、天皇はその御位を皇子に譲るのが原則ですが、該当者がおられなかったため、閑院宮家より親王をお迎えして光格天皇がご即位あそばされたわけです。光格天皇の実父である閑院宮典仁親王が、天皇の父君でありながら親王のままというのは如何なものか、ということで光格天皇は父君に太上天皇の尊号を贈ろうとなさった。これには先例もあるし、何より、人として自然なご発想だと思いますよね。にもかかわらず、けしからぬことに、幕府・松平定信はこれを認めません。そればかりか、使節の公卿を閉門蟄居処分にしてしまうんですよ。これが尊号事件です。この頃から、尊皇論者への取り締まりも、いっそう厳しくなっていきます。林子平は蟄居処分、林子平の「海国兵談」は絶版、という具合に。
これまでの彦九郎は、反幕府とは言え、幕府の存在そのものを否定していたわけではありませんでした。朝廷の権威を高めることで、よりよい文治政治を行うべきだ、というほどの尊皇思想だったろうと私は思っています。しかし、定信が、ここまで強硬にここまで不遜な政治を行い、ここまで朝廷をないがしろにする。であるならば、もはや話は違ってくる。彦九郎の尊皇思想は、このとき初めて、具体的な討幕路線へと転換したのではないか。私にはそう思えてなりません。おそらく彦九郎は、岩倉邸を拠点にして、尊皇派同志たちと密かな打ち合わせを重ねたに違いないんです。そして、現実的実行力をもって王政復古を実現させたいと考えたときに、全国を見渡してみて、幕府に対抗できうる勢力はと言えば、それはやっぱり薩摩の島津しかない。それならば、自分が九州に行き、薩摩に入って、島津と意思を通じ、討幕そして王政復古への道筋を開く。それが自分の使命だ。彦九郎はそう考えたに違いないのです。
筑紫行
寛政3年。こうして彦九郎は、まるで何ものかに吸い寄せられるようにして、九州に出発するわけです。文字通り、決死行です。そしてこれが、彦九郎最後の旅となるわけです。京都を出発するときから、彦九郎の背後には、すでに幕府の密偵がピッタリと張り付いて離れることはありません。手に汗を握るような緊張感が続きます。ようやく薩摩の国境に到着しますが、薩摩のガードは固いですからね。なかなか野間の関所を通れません。イライラが募った彦九郎は、けっこう強い調子で詠んでいます。
薩摩人いかにやいかに苅萱の 関も戸ざさぬ世とは知らずや
ようやく薩摩入りを果たせたのは、細井平洲先生つながりの同志、赤崎貞幹の働きが大きかったようです。赤崎は、ご藩主・島津斉宣公の侍講つまり教師を務めていて、ご藩主のご信頼も篤い。その赤崎貞幹が、彦九郎の目的、つまり朝廷と薩摩をむすぶという密命を知ったうえで、あれこれと根回しをしてくれたんですね。彦九郎は、心底嬉しかったと思いますよ。薩摩に滞在している間、いったんは「我がこと成れり」というくらいの手応えも感じたんじゃないでしょうか。
しかし。前藩主の重豪(しげひで)公は幕府寄りの考えでした。重豪公一派の動きもあって、幕府に遠慮する空気が支配的となってしまいます。結局、彦九郎の悲願が叶うことはありませんでした。赤崎との別れにあたって、加治木にて詠んだ歌には失意がにじみ出ています。
酌みかはす今日の別れの盃の めぐるがごとにまたも相見む
加治木を発った彦九郎は、高千穂峰に登ります。山頂には「天の逆鉾」がありますよね。イザナギ・イザナミがこれで大八洲を創り、ニニギノミコトが降臨してここに突き立てたという「天の逆鉾」です。そんな、天孫降臨の地に立ちながら、彦九郎がものを想わないはずはない。遠く志布志湾を望みながら彦九郎は、絶望の淵に沈みそうになる己の心と、必死になって格闘したのではないでしょうか。
彦九郎は、そのあと財部で一泊、末吉経由で都城に入ります。西河万右衛門宅に宿泊しますが、いつものように、ここ都城でも、彦九郎の来訪を聞きつけた儒学者が訪ねてきます。京都の皆川淇園の門下生、種子田聞五と芋焼酎を酌み交わして、
幾よろず尽きぬたとえの泉川 いづるや清き盃の中
と詠んでいます。「泉川」は、神柱公園を貫いてる年見川のことでしょうが、焼酎の銘柄もまた「泉川」だったのでしょうか。それから
泉川酌みても尽きぬ盃の わかれてもまたあはむとぞおもふ
これは、ご存知のとおり、神柱神社の境内に歌碑がありますね。この歌、加治木での赤崎との別れの歌に似ていませんか。彦九郎は自分に何かを言い聞かせるように詠んでいる。思い詰めている。私にはそう思えてしかたありません。せつないですね。
神柱神社に参拝してから、彦九郎は都城を出発します。その後、岩川、いまの大隅町ですね、岩川に入り志布志経由で飫肥、高鍋、そして日田へと北上して行くわけです。幕府の密偵にピッタリとマークされながら、です。
岩川では、岩川を領有する伊勢氏と会って、政治的な、踏み込んだ話をしたのではないかと想像されます。想像というのは、ちょうどこのあたりの五日分くらいの日記を、彦九郎は、自刃する直前に破棄してるんですよ。幕府の手に渡ったらマズイ記述があったんでしょう。ところで、岩川といえば「弥五郎どん祭」がありますね。ここ山之口にもありますけども。刀を差した大きな武人の人形を、伊勢氏の館近くの八幡神社から志布志近郊まで移動させるお祭りです。何か独特なお祭りですよね。「弥五郎どん」の「弥」は「弥栄(いやさか)」と言うように、「長い時間」「永遠の」という意味があります。そして「五郎」は「御霊(ごりょう)」の転じたものという見方があって、つまり「弥五郎」とは、永遠に御霊を慰める、というような意味合いになるのだそうです。ちなみに広辞苑をひくと、「弥五郎」とは「厄を負わせて送り出したり、焼き捨てたりする藁人形の一種」とありますが、いずれにしても弥五郎とは、誰か特定の人物の名前というのではないわけです。そこで、岩川の「弥五郎どん祭」の寓意は高山彦九郎の鎮魂だという説を唱える人もいます。ホームページで岩川の「弥五郎どん祭」の由来を見てみますと、武内宿禰うんぬんとありますが、武内宿禰自身、実在の人物かどうかわかりませんよね。もし、このお祭りの始まりが寛政五年、つまり彦九郎が非業の死を遂げた後に始まったものだとすれば、「弥五郎どん=彦九郎」説はなかなか説得力があるような気がするんです。彦九郎は、久留米で自刃する直前、岩川での出来事を記録した部分の日記をわざわざ破却していますから、伊勢氏との間で、よほど深い話をしたんでしょう。同志として心通じた伊勢氏は、彦九郎の死を心底悼んだんじゃないでしょうか。お祭りの「弥五郎どん」は、八幡神社に近い伊勢氏の館から志布志へ向けて旅立って行く彦九郎そのものですよ。
さて、志布志経由で飫肥に入った彦九郎ですが、ここでは学問所設立の必要性を強く説いています。そして、それがきっかけで振徳堂ができたんですね。記録もあります。安井息軒、小倉処平、小村寿太郎ら、多くの傑物を輩出した振徳堂ですが、彦九郎とはこうしてつながるわけです。
彦九郎は、大分の日田に入ります。幕府の天領ですので非常に神経をつかったようですが、あえて広瀬桃秋を訪ねています。天下の情勢について知ろうとしたんですね。尊号問題はその後どうなっているのか?京都はどんな状況なのか?というようなことを。その際、息子の淡窓にも会っています。淡窓は、当時まだ12才ですけれども極めて優秀。一日に漢詩を百も作ったと聞いて、彦九郎は驚いています。
大和には聞くも珍し玉をつらね ひと日にももの唐うたの声
のちの広瀬淡窓は、尊皇の心篤い儒学者・教育者として、高野長英や大村益次郎などたくさんの傑物を育てています。子供のころの、ほんの一瞬だったけれども、高山彦九郎と出会っていることは、やはりめぐり合わせだと思います。
さて。薩摩を説得できなかった彦九郎は、何としても京都に帰りたいのです。そして再起を期して、次なるチャンスを待ちたい。けれども関門海峡を渡れない。幕府側の監視がいよいよ厳しく、見つかれば逮捕されるからです。幕府の密偵に追い詰められながら、久留米の友人・森嘉膳を頼ります。そんななかで、偶然にも薩摩の赤崎と再会のチャンスをえました。参勤交代の島津斉宣公の行列に赤崎が随行していたんですね。情報から閉ざされたままの彦九郎は、すがる思いで赤崎の報告を聞いたことでしょう。ですが、天下の情勢は一変していたんです。尊号事件以来の幕府の取り締まりは苛烈になって、なんと光格天皇ご自身も「尊号問題」を取り下げてしまわれた。ああ。彦九郎は絶望したでしょう。我がこと窮まれり。そう悟ったに違いありません。
森の邸宅に戻った彦九郎は、身辺の整理を始めます。ご先祖へ拝礼し、皇居に拝礼し、残すと危ない日記は破却します。寛政5年6月27日自刃。落命したのは翌日です。47歳。辞世は2首。
松崎のうまやの長に問ひて知れ 心つくしの旅のあらまし
朽ちはてて身は土となり墓なくも 心は国をまもらんものを
「松崎のうまやの長に聞け」と言うのは、カモフラージュですね。自分が死んだ後も、幕府の追及があるだろうと予想して、わざとこう言い残したと思われます。それくらい緊迫した状況だったんだと思います。
彦九郎の墓は、久留米の真言宗光明山遍照院にあります。以前、お参りをしたことがあるのですが、墓石には「松陰以白居士」という戒名が彫ってありました。その瞬間、はっと気づきました。吉田松陰です。吉田松陰の「松陰」はこれだったんですね。安政の大獄に座して刑死する吉田松陰の辞世は
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし大和魂
ですが、このモチーフは彦九郎の「朽ちはてて…」の辞世でしょうね。おそらく。松陰は、自らを松陰と名乗るほど、高山彦九郎を崇敬していたんです。明治維新が成るのは、彦九郎の死後77年が経ってからですけれども、彦九郎の生き様は、松陰のようなたくさんの尊皇の士に受け継がれ、受け継がれて、ついには王政復古を成し遂げたということなんですね。
西郷隆盛も、高山彦九郎を漢詩に詠んでいます。
天歩艱難繋獄ノ身
誠心豈二忠臣二慙ズルコト莫カランカ
遥カニ追フ高山子ノ事蹟
自ラ精神ヲ養ヒ人ヲ咎メズ
天運によって牢獄につながれる身となったが
私の誠意は真の忠臣に及ばず恥ずかしい。
高山彦九郎先生の忠義の事跡を想うならば
自ら精神修養につとめ、人のせいにしたりせぬことだ。
もう一つ、これは高山彦九郎の画を贈られた際の、「題高山先生遇山賊図」という漢詩です。
精忠純孝群倫二冠タリ
豪傑風姿畫イテ眞ナリ難シ
小盗膽驚クニ何ゾ恠シム二足ラン
回天創業是レ斯ノ人
高山彦九郎先生の忠孝はもっとも優れていた。
豪傑の姿形をそっくり画きだすのは難しいものだ。
しかしこの画をみると、小盗人が先生の威光に驚いて、
肝を潰したという話があるがそれも不思議ではない。
維新をなしたのは、高山彦九郎先生その人なのだ。
この小盗人の話というのは、あるとき牢屋の中で盗人が語ったことですが、怖いもの知らずの自分でも、生涯ただ一度とても恐ろしい思いをしたことがある。山賊仲間の四人で、山中を旅する武士の行く手をさえぎり「金を出せ」と凄んでみたところ、「慮外者っ」と一喝され、腰を抜かして尻餅をついた。武士の眼光は鋭く、まるで天狗のようであった。そしてこの人物こそ、あの高山彦九郎であっただろう。というような話があるんです。漢詩ではそのことを言ってるんですね。まあ、西南戦争のあとに、「西郷星」の話が人口に膾炙したような、そんなところなんでしょうけれども。
高杉晋作も、サノサ節にして唄ってますよ。
人は武士 気概は高山彦九郎 京の三条の橋の上
軒は傾き壁は落ち これが一天万乗の 君のまします御所なるか、
草莽の臣高山彦九郎 憤慨悲憤の至り
遥かに皇居を伏し拝み 落つる涙は加茂の水
福岡の平野国臣も、
一筋におもひし道はさりながら まだき時世はせんすべもなし
と詠んで、彦九郎を偲んでいます。また何よりも、明治天皇の御製に
国のため心つくして高山の いさをもなしにはてし哀れさ
と詠まれています。維新の功績は彦九郎のものだったのですね。
「寛政の三奇士」のうち、林子平も、蒲生君平も、立派な論文著書を残しています。その点、彦九郎には、膨大な日記や和歌が残るだけで、著書の類はありません。しかし、明治維新そのものを構想し、企画し、実行に着手したのは彦九郎です。彦九郎の蒔いた種は70年80年かけて発芽し、根を張り枝を張り、島津斉彬や西郷などたくさんの人々によって維新の大業となって、近代日本建設につながったのです。
明治2年。高山彦九郎と蒲生君平は、「勅しょう」を賜っています。「勅しょう」というのは、「出身地の村の入り口に表彰の碑を立てて、郷土の人達の誇りにしなさい」と言う意味の勅語による表彰のことです。天皇陛下より直接そのようにお認め頂くわけで、後にも先にも例の無い、最高の表彰の形式なんだそうです。明治11年に、高山彦九郎は正四位を贈られ、明治14年には蒲生君平が正四位、明治15年には林子平が正三位を贈られています。もちろん「三奇士」はとっくに鬼籍の人となっているわけですが、しかし維新政府は、最高の礼をもってその勲功に報いたのでした。
高山彦九郎について、その人のほんの一部についてですが、お話をさせていただきました。
終わりに、いま私が想うこと。それは、政治に関ろうとする者、世の中を変えようとする者は、憤死するということです。彦九郎も彦九郎に関った人たちも、西郷も、大久保も、みんな志に生きようとする者は憤死する。今も、これからの時代もそうです。その一点に思いを致しながら、精進したいと思っています。本日は、長時間にわたりお聴き頂きまして、本当にありがとうございました。
