追悼 井上連合会長
「思い出」に書き入れるのはどうかとも考えたが、私の政治人生において居なくてはならない方だったので、あえて書いておきたい。
井上博水先生は中学・高等学校の大先輩で、都城で医者をしておられた。十五年前、立候補の挨拶に訪れた私に強烈な印象をもたれたそうで、以来、可愛がって頂き、職業上いろいろ障りもあっただろうに私の連合後援会長として絶対的支持を貫いて下さった。
先生とは、中学校で退寮処分、高等学校で応援団長という妙な経歴まで似ているし、たいへん馬が合った。私は、先生を親父のように慕い、先生は先生で、私の子供たちをご自身の孫のように可愛がって下さった。
薩摩人らしい豪快さと繊細さを合わせ持つ大人で、政策集団「のぞみ」の結成を楽しみにしておられたが、その前日夜遅くに急逝されたのだった。享年七十三歳。
『巨星墜つ。しかも、あまりに唐突に…。
訃報を聞いて、わが耳を疑いました。つい数日前に、私の家族ともども、新年会でご一緒させて頂いたばかりでしたから。 十九日には、政策集団「のぞみ」を結成いたしました。歴史を相手にした義挙ですと、早くから先生にはご報告しておりましたし、先生も亡くなる直前まで「明日の記者会見が楽しみじゃ」とお心にかけて下さったと聞きました。その記者会見場では、私には、きっと先生は横に居られるだろうと分かっていましたから、とにかく泣いてはならんと歯を喰いしばっていたのです。そのまま羽田から鹿児島空港へ、そしてご自宅へと、泣きながら帰ってまいりました。ところが、おかしなものですね。先生のお顔を拝したら、自然と心が落ち着くのですから。「おいは古川禎久の侍大将じゃ。いつでん古川の横におって、ともに闘うとじゃ」。その、いつもの先生の口癖の通り、これからの大事な場面においても、ずっと私の横にいて支えて下さるに違いない。私はそう理解することに致しました。
井上博水先生とともに歩んだ、これまでの私の政治人生は、もちろん政治の道ですから不遇なことのほうが多かったのですが、いつでも先生は横にいて私を支えて下さいました。「この場面は山中鹿介じゃな。黙って耐えるしかない。」とか、あるときには中国の武将を引き合いに出して、「ここは義を貫くべし。傷を負っても前進じゃが。」という具合に。少年のように真っ直ぐで、ちょっぴり茶目っ気があって、情義に篤くおとこ気にあふれて、何より心の広い高徳の人。そんな先生とともに歩めたことは、古川よしひさ、生涯の喜びであり、誇りとするところであります。
いま思えば、おやっと感じることもあったのです。年末に焼酎を酌み交わした際は、「辞世ができた」と言って披露なさいました。死してもますらをの横にいるぞ、というような歌で、私は泣きました。しかし辞世とおっしゃったものですから、認めるわけにいきませんから、あえて聞き流したのです。私の不覚でした。あのときの一言一句を胸に刻んでおくべきでした。
先生。いまは、ひとたびお別れいたします。そして、いずれまた必ずお目にかかります。そしてそのときに、私もちいっとばっかい仕事をしてきましたよとご報告ができるよう頑張ります。その西郷隆盛のような太っとか目ん玉で、どうか、ご照覧あれ。』
ジサマ(爺さま)のこと
地元での政治活動のスタート地点はと言えば、ジサマ(当時80歳)の養豚場以外にありません。
薩摩出の頑固偏屈なジサマは、若い頃はいろいろ毀誉褒貶あったらしいけれど、私のことは実の孫のように可愛がってくれました。当時アパートも借りれずにいた私は、ジサマの養豚場に居候。毎朝、軽トラックで連れ立って選挙区の山奥から山奥まで歩いて回ったものです。養豚場の夜は、特に懐かしく思い出すのは寒い冬の夜ですが、破れ障子から冷たい風が吹き込んでくるのです。二人して炬燵で暖をとりながらお湯割りのコップを握りしめ、私は大まじめに青い夢を語るし、ジサマはジサマで大まじめで相槌を打っくれました。30歳の若けモンと80歳のジサマの変わった取り合わせ。私の政治活動はこうして珍コンビでスタートしたのでした。
次第にいろんな会合に呼んでもらうようになり、焼酎の席も増えてきた頃だったでしょうか。深夜酔っ払って帰り、部屋の蛍光灯の紐を引っ張って灯りをつけると、そこには布団がキチンと敷かれている。枕元には私の下着や靴下までもたたんであります。何度となく私は「ジサマ。洗濯は若けモンがしますから。」と申し出るのですが、ジサマは決まって「オハンのその手は、1万人の皆さんと握手をせんにゃならん手じゃっど。朝起きて、顔を洗い歯を磨く以外は、水を触っちゃならん。」と言うばかり。その言葉に私はいつも涙をこぼしておりました。
「オハンが当選してバンザ〜イができれば、オイはそのままバタッと倒れて死ぬとじゃ。」「オイの人生の最期の花道じゃ。」これがジサマのいつもの口癖でした。しかし選挙は落選続き。ジサマも85歳を過ぎ体力に衰えが目立つようになりましたが、頑固モンですので若けモンの言うことを聞こうとはしません。自転車で一軒一軒ビラ配りをしてくれるのですが、目がよく見えない上にヨロヨロよろめいて本当に危ない。「ジサマ。もうよかからやめて下さい。」何度言っても「ワイは黙っちょれ!」の一言。またしても私は涙をこぼすばかり。
平成15年11月の総選挙でようやく私は初当選させて頂きました。養豚場の居候から、実に9回目の冬のことです。。しかし、ジサマはその直前の2月に他界。救急車の後を追いかけましたが間に合いませんでした。そして何よりの心残りは、とうとうバンザイをさせてあげられなかったことです。あと少しだったのに。
けれども、きっとジサマは満足してくれていると思います。あの選挙戦の最終日。夜。「原点」である養豚場へ向かってひた走る選挙カー。スピーカーの喧騒の下からふと見上げると、澄んだ夜空にクッキリと満月が浮かんでるではありませんか。その見事な満月が確かに何かを言ってくれたような気がしたのです。後部座席の妻をふりかえり、「ジサマやね・・・」二人してそんな確信がありました。
焼酎のこと
私の実家はかつて焼酎屋でした。造り酒屋といえば白壁の蔵のある旧家のようなイメージがあるかもしれませんが、そうではありません。シラス台地が広がる南九州には、以前から芋焼酎を造る小さな焼酎屋がたくさんあり、我が家も昭和元年から家族の手でこぢんまりと焼酎を造っていたのです。
記憶に残る工場(こうば)の光景。裸電球と壁板の節穴から差し込む光。眼鏡のジイちゃんと何やら計器らしい道具。薄暗い土間で黙々と原料芋の端を切り落とす作業。あのときの、芋と土の匂い。湯気立つ石室で麹米を混ぜ込む父の汗。細腕ながら一斗箱(10升入りの木箱)を抱える母の肩。断片的だけれどハッキリと覚えています。
小学生だった私も簡単な作業は手伝いました。ハケで糊をのばして、ラベルを一枚一枚ビンに貼る作業。これはすぐに飽きがきましたが、焼酎のビン詰めや封緘作業なんかは達成感がありました。原酒タンクの掃除をしたら匂いだけで酔っ払い、歌なんか歌いだしたこと。ボイラーの熱湯を風呂代わりにしたことなど、楽しく大騒ぎした思い出もたくさんあります。今の機械化された時代と違って、何もかもが単純で素朴でどこか牧歌的な焼酎工場でした。
焼酎屋はずいぶん前に廃業し、小さな工場も壊してしまいました。工場があったはずの敷地は、あらためて見ると驚くほどに狭く、猫のひたいほどしかありません。しかし、この場所で焼酎造りの営みがあったこと。そのお蔭で学校に出してもらったことは私にとって大事な記憶です。
鮎のこと
ふるさとを流れる福島川。通称「したんこら」(下の川原の意)と呼ぶこの川で、川エビ、フナ釣り、鮎獲りなど川遊びをしながら私は育ちました。
父にはよく鮎獲りに連れていかれました。月のない晩に、カーバイトのランタンと魚篭を腰に下げ、川下から網を打っていくのです。昼のうちに川を歩いてますので、どこが瀬でどこが淵かはよく分かっています。たくさん獲れますと、凱旋将軍のように誇らしい気持ちで家に帰ったものです。
お隣の床屋の浩おじちゃんはチャッポンがけ(転がし釣り)の名人でした。床屋が休みの月曜日には、決まって川べりの指定席に腰を降ろして釣竿を操っています。浩おじちゃんは、次々と釣りあげる鮎に塩をまぶしドラム缶の火で炙りながら、美味そうに焼酎を飲んでいました。
だからなのでしょう。私は鮎という川魚に特段の愛着があります。人影を察知した瞬間に姿を消す敏捷さ、きめ細かなウロコと黄金色に光る肌、無駄のないスマートな姿。鮎こそは川魚の女王です。鮎の独特の香り、秋の川面に跳ね上がる水音。私のふるさとの懐かしい原風景の一部です。
本との出合い
高校一年の「生物」の受け持ちは町田先生でした。淡々とした口調ながらも熱く語る先生の授業はとても面白く、ノートを取りながら熱心に聴き入ったものです。特に興味をそそられたのは生態系に関する授業でした。森羅万象すべてが循環しているという生物界の妙味に惹かれた私は、さっそく町田先生を訪ね、本をご紹介下さるようお願いしたのです。
ご紹介いただいたのは、『沈黙の春』(レイチェル・カーソン 1962年)と『複合汚染』(有吉佐和子 1975年)の2冊でした。ご存知の方も多いと思いますが、2冊とも「農薬などの化学物質が生態系に与えるダメージ」「残留毒性の恐ろしさ」などを告発した本で、そのころから相当話題を呼んでいた本です。もちろん、山や川で育った古川少年も大変ショックを受ける内容でした。強烈な恐怖心とともに、少年なりに義憤に似た感情を抱いたことを覚えています。ちょうど政治に漠とした関心を持ちはじめた頃でもありましたが、今ふりかえってみますと、この2冊との出合いはその後の私にかなりの影響を与えたように思います。
あれから30年近くの時間が流れました。事態はいよいよ深刻となり人類の生存にり抜き差しならないところまで来ています。2冊の本との出合いをもう一度噛みしめてみよう、と思っています。