小さな焼酎屋

私の実家はかつて焼酎屋を営んでいた。シラス台地の広がる南九州には、ふるくから芋焼酎をつくる零細業者がたくさんあって、我が家も昭和元年から細々と焼酎を造っていたのだ。いまの機械化された時代と違って、むかしの焼酎づくりはもっと素朴でシンプルだった。祖父母や父母、家族みんなが力を合わせて黙々と働いている姿を、私は今でもはっきりと覚えている。
我が家は小売もやっていた。夕飯どきになると、近所のお客さんがビールや焼酎を買いに来てくれたし、配達注文の電話も必ず何本か鳴る。そのたびに忙しく立ち働くのは母であった。私は母がゆっくりと夕飯を食べる姿を見たことがない。いつも女の細腕で一斗箱を抱え、懸命に商売に励んだ母である。「勉強のためならお金はいくら使ってもよかとよ。お父さんお母さんが一生懸命働くから心配しなさんな」。そんな母の言葉に胸がいっぱいになったものだ。
今では廃業して、焼酎工場も取り壊してしまった。見れば、ほんの猫の額ほどのスペースなのだが、我が家は紛れもなくここで焼酎をつくり営んでいたのである。

「福乃露」と「くしま」