連合後援会長は永久欠番



井上博水先生は中学・高校の大先輩で、都城で医者をしておられた。初出馬のご挨拶に伺った私を気に入って下さって、職業上いろいろ障りもあっただろうに私の連合後援会長として絶対的支持を貫いてくださった。先生とは、中学校では退寮処分、高校では応援団長という妙な経歴まで似ていて、私は先生を親父のように慕った。ドクターとしても、つねに患者の身になってくれる頼もしい存在だったが、一方でクリニックの宣伝広告は一切しない主義で、経営に関してはむしろ無頓着のようにも見えた。待合室の壁紙がはがれ、ソファーのバネがバカになっていても、そんなことは一切意に介さない。わしは真っ直ぐに医の道を行くのだと宣言しておられるかのような医者っぷりであった。あごひげを蓄えられてからは、山本周五郎の「あかひげ」をもじって「しろひげ先生」などとお呼びしたものだ。井上博水先生は実に、薩摩人らしい豪快さと繊細さをあわせもつ大人であった。享年七十三歳。
弔辞
『訃報を聞いてわが耳を疑いました。つい数日前に、私の家族ともども新年会でご一緒させて頂いたばかりでしたから。(中略)「おいは古川禎久の侍大将じゃ。いつでん古川の横に立って伴に闘う!」その、いつもの先生の口癖の通り、これからの大事な場面においても、先生はずっと私の横にいて支えて下さるに違いない。私はそう理解することに致しました。井上先生とともに歩んだこれまでの私の政治人生で、もちろん政治の道ですから不遇なことの方が多かったのですが、いつでも先生は横にいて私を支えて下さいました。「この場面は山中鹿介じゃな。黙って耐えるしかない。」とか、あるときには中国の武将を引き合いに出して、「ここは義を貫くべし。傷を負っても前進じゃが。」という具合に。少年のように真っ直ぐでチョッピリ茶目っ気があって情義に篤くおとこ気にあふれた井上先生。そんな先生とともに歩めたことは、古川よしひさ、生涯の喜びであり誇りとするところであります。
いま思えば、おやっと感じたことがありました。年末に焼酎を酌み交わしたときに、「辞世ができた」と言って披露なさったのです。死しても益荒男の横にいるぞ、というような意味の歌で、聞いた私は泣きました。しかし「辞世」とおっしゃったものですから、認めるわけにはいきませんから、あえて聞き流したのです。私の不覚でした。あのときの一言一句を胸に刻んでおくべきでした。
先生いまはひとたびお別れいたします。そしてまた必ずお目にかかります。そしてそのときに、私もちいっとばっかい仕事をしてきましたよとご報告ができるよう頑張ります。どうか、その西郷隆盛のような太っとか目ん玉でご照覧あれ。』