言語に魅せられた人

原子力技術の視察でフランスを訪れた際、日本人通訳の古多さん(仮名)に出会った。長身で長髪。しっかりした顎づきの顔にどこか遠くを眺めるような眼差し。日本人っぽさのないハンサムな哲学者という印象であった。お聞きすると、十六歳の頃にリルケの詩に魅せられ言語の奥深さにのめり込んだ古多さん。二十歳で単身ドイツに渡り、皿洗いなどでしのぎながらスペイン人女性と結婚、現在はフランスで通訳や翻訳をしながら生活しておられる。いまも一貫して言語に魅せられた人生だという。なるほど…とひとり得心しながら、異国の地で直向きに生きるお姿に静かな感動を覚えた。
シェルブールからパリへ戻る列車で会話が弾んだ。氏は息つく間もなく語り続ける。言語に関する話題は尽きることがない。ヨーロッパの童話や寓話の背景。擬音の国際比較…。幅広い分野にわたる興味深いお話が次から次へとあふれ出る。私は一言も聴き漏らすまいと一心に耳を傾ける。
「言語はインスピレーションから始まる」、という一言は強烈だった。「だから、詩は神秘性を持つのだ。」「だから、日本語は論理というよりむしろ詩なのだ…」と続く氏の熱弁にわたしは引き込まれた。この方は、人生の大半を外国で過ごしておられるが、氏の見つめる一点は実は日本なのではないか。ふと、そう感じた。
ところで、古多さんは弱視であった。若い頃に視神経を傷めたという。もちろんご本人が望んだはずもなく、きっとそれは天の仕業だっただろう。天は、言語に深く魅せられた人から、あえて視力を奪った。私にはそう思えてならなかった。