ジサマの養豚場

私は三十を機に郷里に帰って政治活動を始めた。そのスタート地点はどこかと言えば、それはまぎれもなくジサマ(爺様)の養豚場ということになるだろう。ジサマは薩摩出身の八十歳。鬼瓦のような顔をした頑固偏屈な爺さんだったけれど、私にとってはかけがえのない恩人である。都城でアパートも借りられずにいた私は、偶然にもジサマに出会い、養豚場に居候させてもらうところから活動を始めたのだ。鹿児島県との県境にある養豚場の冬は寒い。破れ障子から冷たい風が吹き込む夜、私は焼酎のお湯割りを握りしめながら大まじめに青い夢を語り、ジサマはジサマで大まじめに相槌を打つ。そして朝になると二人して軽トラックに乗って選挙区の山奥から山奥へと一軒一軒を訪ねて歩くのだ。三十の青年と八十の老人の変わった取り合わせ。私の政治活動はこうして珍コンビでスタートしたのである。
次第にいろんな会合にも声がかかるようになり、焼酎の席も増えてきた頃だ。深夜酔って帰って部屋の電灯を点けると、そこには蒲団がキチンと敷かれている。枕元には私の下着や靴下までもたたんであるのだ。何度となく私は「ジサマ、洗濯は若者の仕事ですから…」と申し出るが、ジサマは決まって「オハンのそん手は、一万人の皆さんと握手をせんにゃならん手じゃっど。朝起きて、顔を洗って、歯を磨く以外、水を触っちゃならん。」と言うばかりで、私は涙をこぼすしかなかった。
「オハンが当選してバンザーイができれば、オイはそんままバタッと倒れて死んでよかとじゃ。」「オイの最後の花道じゃが。」これがジサマの口癖だったのだが、選挙は落選続きである。ジサマも八十五を過ぎ体力に衰えが目立ってきた。自転車にのって一軒一軒ビラ配りをしてくれるのだが、目がよく見えない上にヨロヨロよろめいて本当に危ない。「ジサマ、もうよかからやめてくださいよ。」何度言っても「ワイは黙っちょれ!」の一言。またしても私は涙をこぼすしかなかった。
平成15年11月の総選挙でようやく私は初当選をさせて頂いた。養豚場の居候から、実に9回目の冬である。しかしジサマはその直前の2月に他界。救急車の後を追いかけたが間に合わなかった。何よりの心残りは、とうとうバンザイをさせてあげられなかったこと。あと少しだったのに…。けれども、ジサマはきっと満足してくれていると確信している。なぜなら、あの選挙戦の最終日の夜、今は誰もいないジサマの養豚場をめざして走る選挙カー。スピーカーの喧騒の下からふと見上げると、澄んだ夜空にクッキリと満月が浮かんでいるではないか。そしてその見事な満月が、私に向かって確かに何かを言ってくれたのだ。後部シートの妻を振り返ると、妻も分っているようだった。あれはジサマだと。